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偉人たちの夏(の終わり)

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いとしのえりぃ(千葉恵里 AKB48)が「ミュージックフェア」に\(^o^)/ えりぃセンターAKB楽曲をミュージックフェアで観れるなんて……夢にも思わなかった えりぃ自身による曲紹介だけでえりぃ個人には相変わらずスポットは当たらず、世間は冷たかったが個人的にはとてもとても幸せです(^o^)






松田洋子
@matuda
·
6h
北朝鮮の旅行は自由行動一切なしで、壺と刺繍と彫刻が並ぶ謎の工芸店などに連れていかれて何か買わされるだけなんでどんよりしてたが、アントニオ猪木像をみつけた時だけはテンション上がってみんなで笑ってしまった。
元気をありがとうございました。
日本人向けなんだろうけど、買う人いたのかなー。





2022年は吉田拓郎とアントニオ猪木、私の心のヒーローお二人が奇しくも静かに消え去るとゆーさみしい年になってしまいました まぁ拓郎さんは存命ですけど(^o^)お二人とも自分の中で勝手に覚悟は出来ており、猪木さんの訃報はちょうどテレビを見ていて、たまたまその時テレビ画面は見てなかったのですが、元プロレスラーのアントニオ猪木……と、聞こえた時点で悟りましたね 嗚呼、亡くなったんだな……と

猪木さんに関しては若い頃の一時期私の最大のヒーローだった季節が間違いなくありました しかしながら心ない冷淡な私は プロレスラーとしての明らかに精彩を欠いた晩年、引退後の政治家転身、新間寿氏との決別……等々、勝手に猪木さんに大いに失望し猪木さんに関心を寄せることは長きにわたりほとんど無かったのでした だから猪木愛の無い私には今、猪木さんを語るのは実にしんどい 先頃放送されたNHKの闘病猪木のドキュメントも本当に見るのが辛くて 辛くて悲しくてなかなか正視できず歯を食い縛りながら見たものでした でも見てよかった、と、感じたことは先のブログにも書きましたけどね あの病床の中の猪木は紛れもなく私の大好きだった“燃える闘魂”アントニオ猪木でした

そこで今回は誤魔化します(^o^)←いつもじゃん

かつて男が燃えるのは

アントニオ猪木と吉田拓郎!!!

などと発言し勝手にシンパシーを感じまくった桑田佳祐さんの記事をパクってお茶を濁します(^o^)

その前にもういい加減にしなさい!などと言われようが、アントニオ猪木と並び、男が燃えるしかない吉田拓郎さんをスージー鈴木さんはかつて日本のロック偉人に選出されててその記事をパクったものですが、今回は総括的な気合いの入った記事

  
 「吉田拓郎」のいったい何がそんなに凄かったのか
音楽ファンから高くリスペクトされる理由
 


を書かれてるのでもちろんブログの最後にパクったので(^o^)是非読んでね で、そのスージーさんの拓郎愛が炸裂された大変素晴らしい企画があったのでこれもパクりますね(^o^)これは愛ですよ、愛\(^o^)/拓郎不在の拓郎ロック偉人の証明!感服いたしました スージー鈴木、音楽評論家の証明と私は言いたい(^o^)

迷わず聴けよ!聴けばわかるさ!!

1、2、3!ダー!!!!!!!!

「吉田拓郎のいない吉田拓郎特集」。吉田拓郎の曲をかけずに吉田拓郎の巨大な功績を証明するという屈折倒錯した企画です。


  【起】
M1:Blowin’ in the Wind/ボブ・ディラン(1963年発売)
M2:時の過ぎゆくままに/沢田研二(1975年8月21日発売)
M3:夏が来た!/キャンディーズ(1976年5月31日発売)
M4:ふるさと/五木ひろし(1973年7月15日発売)

【承】
M5:ドライブ/ホフ・ディラン(2012年2月22日発売のアルバム『2 PLATOONS』収録)
M6:ホーベン/柳原陽一郎(2001年9月25日発売のアルバム『ウタノワ』収録)
M7:WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント~/広瀬香美(2021年1月27日発売のアルバム『歌ってみた 歌われてみた』収録)
M8:メロディー/真心ブラザーズ(2018年9月5日発売のアルバム『INNER VOICE』収録)

【転】 
M9:ジャンピン・ジャック・フラッシュ/西城秀樹(1975年2月5日発売のアルバム『西城秀樹リサイタル/新しい愛への出発』収録)
M10:夏祭り/長渕剛(1981年3月5日発売のアルバム『長渕剛LIVE』収録)
M11:自殺志願者が線路に飛び込むスピード/野狐禅(2003年7月30日発売)
M12:裸の心/あいみょん(2020年6月30日発売)


【結】
M13:唇をかみしめて/奥田民生(2004年6月30日発売のシングル『スカイウォーカー』収録)
M14:イメージの詩/浜田省吾(1997年10月22日発売)
M15:永遠の嘘をついてくれ/中島みゆき(1996年10月18日発売)



やってくれるね!スージーさん\(^o^)/

今はただ吉田拓郎を語らず(^o^)

吉田拓郎を語らずして大いに語り尽くす……

で、次回の予告です(^o^)


 


株式会社ミュージック・マガジン
@MMRC_magazine
·
Sep 12
9/20発売 ミュージック・マガジン10月号のお知らせです。

【特集】 1990年代 Jポップ・ベスト・ソングス100

【特集】 南アフリカのジャズ

□ ダニエル・ラノワ
□ 七尾旅人
□ 歌ものハウス30選
 

プロインタビュアーの吉田光雄さんがマニアックなツッコミをされてますが、


吉田光雄
@WORLDJAPAN
·
Sep 25
『ミュージック・マガジン』2022年10月号、特集「1990年代Jポップ・ベスト・ソングス100」。90年代の日本の音楽は大好きなので執筆オファーを快諾したら、オリコン30位以内のシングルA面曲という縛りがあったせいで好きな曲が全然選べなかったんですけど、編集にはこんなメールを出してました。



他にも出来たら今やテレビをつけたらユーミンが映る(^o^)チューリップ財津さんの番組などなどいつもながらの薄っぺらい読んで損した記事を予定しています

あっ、私に言わせれば怒濤の偉人たちの新譜ラッシュが一段落しましたが新譜リリースは待ってはくれません(T_T)

湯川潮音、ホフディラン、ハンバートハンバート、七尾旅人、ボス(さださんじゃない方の(^o^))そしてコレクターズ\(^o^)/

この中で目玉は七尾さんの新譜かと思われますが、実際、ミュージックマガジン大絶賛、私自身「Love music」ユーミン特集における『ドンセイグッバイ』(一緒に歌われた大比良瑞希さんがまた素晴らしかった!)私はこれ聴いて思いましたよ

藤井風、折坂悠太、そして七尾旅人

NWA三大偉人\(^o^)/

七尾さんだけまだベルトを巻いてませんが?そんなの関係ねー!!!(^o^)

ちなみに七尾さんが挙げる“親に等しい”ユーミンソングは『ベルベット・イースター』『ハルジョオン・ヒメジョオン』だそーです

さて、新譜はどれを購入しようかな?コレクターズはマストですけど、あとは財布と相談(T_T)

あっ、いけね!忘れるところだった





 
桑田佳祐

 ◇アントニオ猪木さん死去

 猪木さんを敬愛してやまなかったサザンオールスターズの桑田佳祐(66)が1日に生放送されたTOKYO FM「桑田佳祐のやさしい夜遊び」で「親兄弟を失ったような感覚。私の青春もこれで終わったよう」と喪失感を口にした。

 少年時代の憧れだった。「発想がスタンダードではない」と魅力を語り、特にムハマド・アリとの異種格闘技戦に衝撃を受けた。ジャンルにとらわれない自身の音楽性に大きな影響を与えた。

 82年の音楽番組「ザ・ベストテン」で初対面。生放送中に得意技「コブラツイスト」をかけてもらった。「あの腕っぷしの強さ、忘れません。ダーッ!」と振り返り、技を曲名に入れた持ち歌「Soulコブラツイスト~魂の悶絶」を流した。

 
 
■「拓郎だけは好きだった」とも発言していた桑田
 
吉田拓郎といえば、1970年代に「フォークの貴公子」として一世を風靡し、今日のJ-POPにおける基礎を築いたとも評される偉人。同時代を生きた若者にとってカリスマ的存在だった彼に、桑田も多大な影響を受けたらしく、かつて自著の中で「フォークは大嫌いだったけど、拓郎だけは好きだった」と告白しています。
また、自分で曲をつくろうと思ったきっかけは、拓郎の手掛けたフジ・フイルムのCMソング『HAVE A NICE DAY』を聞いたからだとも語っており、敬愛しているのは明らかなのです。






 

 吉田拓郎」のいったい何がそんなに凄かったのか
音楽ファンから高くリスペクトされる理由


スージー鈴木


吉田拓郎が、ついに歌手活動からの引退を表明した。

6月29日にラストアルバム『ah-面白かった』を発売、そして7月21日にはフジテレビ系『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』がオンエア。ニッポン放送の『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』も年内で終了することを本人が明言。



しかし、音楽評論家として思うのは、吉田拓郎という超大物の引退にもかかわらず、その巨大な功績がしっかりと総括されていない感じがするということだ。

1966年生まれの私自身は、少し遅れてきた世代となる。あっという間に時代を席巻した70年代前半の吉田拓郎を、年齢的にリアルタイムでは見ていない。

言い換えると、私より10歳ほど上の、末広がりの「Gパン」を履いた長髪兄貴世代が「あぁ拓郎!我が青春!」と熱く神格化するのを、少々冷めて見ていた世代である(余談だが「拓郎」と表記すると、あの世代・時代のイメージが強くよみがえりすぎるので、本稿では、少々まどろっこしいが「吉田拓郎」とフルネーム表記する)。

吉田拓郎の功績をしっかりと総括したい

今回は、末広がりGパン長髪兄貴世代を客観的に見ていた、ひと世代下の評論家の視点から、吉田拓郎の巨大な功績を、冷静に捉えてみたい。その縦・横・奥行きを正確に測定したいと思う。

先に、本稿のタイトルに対しては、「そりゃもう、すべてが凄かった」と返したいものの、それがちょっと乱暴だとすれば「1970年代前半の吉田拓郎によって、Jポップは基礎付けられたんだ」と添えたい。

 
1970年代前半の吉田拓郎がもたらした最大の功績は「本質的な自作自演の確立」だ。作詞・作曲・歌を1人でこなすという、つまりは、現在のJポップ市場の核を成す自作自演音楽家=いわゆる「シンガーソングライター」の嚆矢(こうし)としての吉田拓郎。

もちろん吉田拓郎以前にも、作詞・作曲・歌を1人でこなす音楽家は存在した。ただ、吉田拓郎の場合は、歌詞とメロディの両面に、他の誰でもない、借り物でもない、あくまで自分ならではの強烈過ぎる個性を放っていた。つまりは「本質的な意味での自作自演」だったのだ。

まずは歌詞。象徴的なパンチラインは、デビュー曲『イメージの詩』(1970年)の中で高らかに宣言される「♪古い船を 今 動かせるのは 古い水夫じゃないだろう」。

学生運動などに大きく揺れる時代を表現しながら、それ以前の「反戦フォーク」による直截的な文字列に比べて、より文学的/抽象的で、幾重にも解釈の幅が広がり、結果、多くの若者の気持ちをがっちりと掴み取った。

日本音楽界のどこにも存在しなかった言語感覚

また大ヒット曲『結婚しようよ』(1972年)の「♪僕の髪が肩までのびて 君と同じになったら 約束どおり 町の教会で結婚しようよ」では、結婚というライフイベントを、家と家による保守的な因習としてではなく、自分たちらしく気楽に捉えるんだという、新世代(≒団塊世代)による新価値観に溢れている。

広島から出てきた無名の若者が世に問うた、それまでの日本音楽界のどこにも存在しなかった言語感覚。吉田拓郎によるこれら「本質的な自作自演コトバ」の延長線上に、桑田佳祐や奥田民生がいると、私は考える。

続いてメロディ。こちらは、先鋭的な歌詞とは逆に、とても人懐っこく、口の端にのぼるもので、だからこそ、当時の若者の中で一気に浸透した。

具体的に言えば、先の『イメージの詩』『結婚しようよ』は、両方ともペンタトニックスケール(五音音階=ド・レ・ミ・ソ・ラ)で出来ている。詳細は省くが、世界中の民謡や日本の演歌でも多用される土着的な音階で、だからこそ、気楽に鼻歌でも歌えるような、普段着感覚のメロディになる。


 
こちらは、すぎやまこういちや筒美京平などの職業作家が作るグループサウンズ(GS)のメロディなどが仮想敵だったのだろう。ド・レ・ミ・ソ・ラに加えてファやシも入ったエレガントなマイナー(短調)スケールによる、ヨーロッパ的で陰鬱なメロディに対して、地に足の付いた普段着のメロディで抗(あらが)った吉田拓郎。

その後の作品において吉田拓郎は、ペンタトニック(や跳躍、リフレイン)が持ち味の「拓郎節」を完成させる。影響は、愛弟子的存在の浜田省吾から、出身高校の後輩である奥田民生、意外なところでは小室哲哉(『WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント』は典型的な拓郎節)を経て、『LOVE LOVE あいしてる』特番でも共演したあいみょんに至る、数々のフォロワーを生むことになる。

以上まとめると、自分らしい強烈な個性に溢れたコトバとメロディ、そんな吉田拓郎の「本質的な自作自演」が、「こんなんでいいんだ!」「こんなのもありなんだ!」と、音楽を志す若者の裾野を広げ、後の「Jポップ」の礎を築いたと考えるのだ。

ビジネスとして成功させた吉田拓郎

吉田拓郎の功績をもう1つだけ挙げれば、その「本質的な自作自演」をビジネスベースに乗せたことである。職業作家が量産する歌謡曲や演歌、GSの世界に、普段着と裸足で分け入って、大きな商業的成功を収めたこと。「フォーク/ニューミュージックは金になる」と思わせたこと。

特に、今からちょうど半世紀前の1972年は「吉田拓郎の年」だった。1月発売のシングル『結婚しようよ』はオリコン3位で42万枚(出典:オリコン。以下同)、7月発売の『旅の宿』は1位を獲得、何と70万枚売れている。また7月発売のアルバム『元気です。』も47万枚(LP)を売り上げ、もちろん1位に輝いた。

さらには1974年、作曲家として提供した森進一『襟裳岬』が日本レコード大賞を獲得、その後も歌謡界との積極的なコラボレーションを続ける。加えて、日本初の大規模オールナイト野外コンサートと言われる「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート イン つま恋」(1975年)や、後に自身が社長を務めるフォーライフ・レコードの創立(1975年)など、日本の音楽ビジネスに果たした貢献は計り知れない。

重要なのは、この時点でのフォーク/ニューミュージック市場において、商業主義が敵視する風潮がまだまだ残っていたということだ。そんな中で吉田拓郎は、レコードをがんがん売って、でっかいコンサートをやって、あげくの果てにレコード会社まで作った。

もちろん、吉田拓郎によるそのような商業的成功が、Jポップ市場という大河への、最初の一滴となったことは言うまでもない。

吉田拓郎を継ぐ形で、日本のロック/Jポップをビジネスとして確立させた桑田佳祐は自身のラジオ番組で「吉田拓郎を聴いて、音楽で金を稼ぐって、すげぇいいなと思ったんです」と話した。このエピソードは、吉田拓郎が、日本の音楽ビジネスに果たした役割を、極めて端的に示している。


1970年。大阪万博の喧騒から遠く離れて、団塊世代と呼ばれる戦後生まれの若者たちが荒れ地に立っている。彼(女)らには、歌謡曲や演歌、GS、カレッジフォーク、反戦フォークなどが、どうもしっくりと来ない。

そこに吉田拓郎という青年がやってきて、これまでに聴いたこともないようなコトバとメロディで歌い出した。若者たちは熱狂した。熱狂するだけでなく、自らもギター片手に吉田拓郎の歌を歌い始めた。荒れ地は肥沃に耕され、新しい若者音楽の陣地となった。

隣では、井上陽水という名の、吉田拓郎より少しばかり暗い表情の青年も歌い出し、それに惹かれた少しばかり暗い表情の若者たちも集まって、陣地が広がった。さらに矢沢永吉という青年が、英語混じりのロックンロールを歌い出し、不良少年たちが集まってツイストを踊りだして、さらに陣地が広がった。

Jポップの礎を作った吉田拓郎

そんな、1940年代後半生まれの青年たちが作った陣地に、浜田省吾、山下達郎、松任谷由実、桑田佳祐、佐野元春ら1950年代生まれの若者たちが、個性的なアトラクションを作っていく。さらに次世代が、ところ狭しと新アトラクションを競い合い、巨大なテーマパークが出来上がる。その名前は「Jポップ」という――。

吉田拓郎がいなければ、どうなったのだろう。テーマパークの完成がどれだけ遅れて、どれだけツマラないものになっただろう。逆に言えば、吉田拓郎の功績は、彼の新譜タイトルになぞらえて言えば、日本の音楽界を『ah-面白くした』ということに尽きるのだ。






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