そんな山木が書き溜めて来た数々の楽曲をセルフ・プロデュース、セルフ・レコーディングで記録したネイキッドな作品集。ソロ作品としては1982年の『泳いで行くにはあまりにも水の流れが速すぎる』以来、36年ぶりにソニーからリリースします。
天下の安室奈美恵様には流石に敵わないものの欅ちゃんの初の映像作品、売り上げ好調のようですね 私もスゲー欲しい しかしながら欅ちゃん1stアルバム(type‐A)を今年になって漸く手にいれた私…これを手にいれ更に鑑賞できるのはいつの日になることやら(。>д<)
たくさんのものが壊れて無くなって、そしてまたひとつ生まれました👑👸🏰崩壊と建設です。 10/24発売です。よろしくね。 #辻詩音zepp pic.twitter.com/LAHaKWhwpV
2018.10.18 鈴木慶一セットリストです。 M01 晨鶏 M02 米の花の味ダイジェスト M03 犬の帰宅 M04 鬼火 M05 Backstage Pass M06 Don't bogart me N07 花咲く乙女よ穴を掘れ Free Session with Daniel ~ Blackbird アンコール I Don’t Want To Talk About It (STAFF)
今作のタイトルは「私的旅行」に決定した。収録曲に関しては9月に配信リリースされた「終わらない世界で」の小林武史に加えて「サニーボーイ・レイニーガール」で水野良樹(いきものがかり)、「NICE TRIP」で中野雅之(BOOM BOOM SATELLITES)が制作に参加。さらにこれまでもDAOKOの楽曲に携わってきたTAKU INOUE、小島英也(ORESAMA)、きくお、神山羊、羽生まゐごなどといった面々が制作陣に名を連ねている。
作品にはほかに「打上花火」の「DAOKO SOLO ver.」が収められることも決まった。初回限定盤に付属するDVDには小林との「終わらない世界で」のスペシャルセッションの様子、山戸結希監督による同曲のミュージックビデオ、そのメイキングが収録される。
・NICE TRIP[作詞:DAOKO / 作曲:中野雅之(BOOM BOOM SATELLITES)、DAOKO / 編曲:中野雅之(BOOM BOOM SATELLITES) / Produced by 中野雅之 (BOOM BOOM SATELLITES)]
・24h(feat. 神山羊)[作詞:DAOKO / 作曲:神山羊、DAOKO / 編曲:TAKU INOUE]
01. DAOKO × 小林武史 SPECIAL SESSION
02. MUSIC VIDEO
03. メイキング収録
『終わらない世界』、いい曲じゃん!…と思ったら小林武史さん… にしても岡村靖幸、米津玄師…あ、忘れちゃいけない片寄明人(great3)も(^o^)DAOKO、恵まれてますねぇえぇえぇえぇえ
パソコンくんが教えてくれましたが 今日2018年10月22日は 生まれて初めてCDを出した日から (インディーズ盤の「いっさいがっさい」) ちょうど15年とのこと なんとか続けられています ありがとうございます✧ とらわれない程度に初心忘れず〜 pic.twitter.com/VNnC37VXKK
PANTA x 鈴木慶一 対談~伝説の『マラッカ』と『1980X』を語るPANTA
日本のロック黎明期からラディカルな音楽性とライブパフォーマンスで熱い支持を集めた頭脳警察のPANTA。彼がソロを経て、1977年に結成したバンド=PANTA & HALがリリースしたアルバム『マラッカ』(1979)と『1980X』(1980)は、今なお刺激に満ちた傑作として多くのロックファンに語り継がれている。そのアルバムのプロデュースを務めたのが、PANTAと同時代からはちみつぱい〜ムーンライダーズで活動していた鈴木慶一。
70年代から日本のロックの熱い季節を共に過ごし、それぞれが自身の音楽性を探究してきた両者。二人が出会った頃に起きた“歴史的事件”から、70年代後半〜80年代の変革期にかけて両者が稀代の名盤を生むに至る経緯と名盤にまつわる秘話を語る。
頭脳警察をTVで観て、「ヤラれた!急がねば」と思った。(鈴木)
−−お二人が最初に出会ったのは?
鈴木慶一:私が1951年生まれで、PANTAが1950年。学年で言うと2年先輩に当たるわけですが、私が高校を卒業したのが1970年。
PANTA:頭脳警察の結成は1969年で、来年は50周年を迎える。
鈴木:70年に深夜TVで頭脳警察を観たんですよ。「ヤラれた!」と思ったね。
PANTA:慶一は臍を噛んだんだよね。
鈴木:これは急がねば、と思いましたよ。高校時代までは羽田の自宅に引き蘢って宅録ばかりしていたから、卒業と同時に東京の地図が一気に広がったんだ。
−−記録によると、1970年の9月に開催された「第1回日本語のふぉーくとろっくのコンサート」(日比谷野外音楽堂)にお二人とも出演されています。
鈴木:私がはっぴいえんどのサポートでギターとコーラスで参加していた時だ。あれにも頭脳警察は出ていたか。70年は、高校を卒業してすぐにあがた森魚に出会い、はっぴいえんどのサポートをするという目眩のするような年だった。
PANTA:渋谷の「B.Y.G.」の当時のチラシを見ると、対バンではなかったけれど、頭脳警察も、慶一がいたはちみつぱいも出演していたりするんだよね。
鈴木:70年代前半は何度も同じステージに立っていますよ。そして、はちみつぱいを結成した1971年には有名な*慶応大学三田祭事件が起きる。
* 慶応大学三田祭前夜祭には、はっぴいえんど、頭脳警察、はちみつぱいなどが出演。しかし、はっぴいえんどの出番に頭脳警察が乱入したため、はっぴいえんどはわずか1曲でステージを去る事態となり、両バンドの間に亀裂が生じたと伝えられている……。
慶応大学三田祭事件は、当事者それぞれの視点で映画になりそうな出来事だった。(PANTA)
鈴木:本来ははつみつぱいのステージの後がはっぴいえんどの出番だったのが、 なぜかすれ違うように頭脳警察が出て来きたんだ。「あれ?」と思って楽屋に戻ると、当時のマネージャーの「風都市」の石塚幸一が、「今から何が起きるか分からないから、お前らは早く帰れ」と。
PANTA:彼は傘を持ってステージに殴り込もうとしていたらしいけど、黒ヘル部隊が俺たちのステージを包囲していたからね。時間が押して1曲しかできなくなったはっぴいえんどは怒った観客に石を投げられたんだ。
鈴木:結局、いまだに真相は分からないね。
PANTA:いちばん被害を被ったのはその後にステージに出た吉田拓郎だったとか、「あの騒ぎを鎮めたのはオレだ!」と遠藤賢司が言い出したりして、伝説化していったところはあるんだけどね。
鈴木:はちみちぱいは、その現場はいなかったんだ。「早く帰れ」と言われて、騒ぎをよそに飲みに行っちゃったから(笑)。
PANTA:あれは当事者それぞれの視点で映画になりそうな出来事ではあった。 後から聞いた話では、はっぴいえんどのメンバーは、小坂忠の結婚パーティに行かなくちゃいけないから1曲しか演奏できなかったらしいけど。
鈴木:はちみつぱいも客から石を投げられたことはあった。70年代初頭はそんな騒々しい、変動の時代だったね。
当時のコンサートは楽屋で仲良く話すなんてことはまったくなかったね。(鈴木)
−−お二人がそれぞれのバンドで同じコンサートに出演していた頃、交流は?
鈴木:ないない。当時のコンサートは同じような音楽を志すバンドだけが集まる形態ではなかったから、楽屋で仲良く話すなんてことはまったくなかったね。
−−音楽性の違いがコミュニケーションを拒む雰囲気だったんですか?
PANTA:それもあっただろうね。俺たちみたいなバンドもいれば、フォーク・シンガーもいるというある意味デタラメな面子だったから。
鈴木:リハーサルを観たり、時には本番も観たりはしたけど、会話はなかったね。そこに「アイツら、上手いな」という嫉妬心も混じったり。
PANTA:1968年くらいから世界中で戦後のベビー・ブーム世代が現れて、同時に色んな変種も出てきたんだ。それが日本のロックの黎明期とも重なった。
鈴木:はっぴいえんどやはちみつぱいが所属していた「風都市」という企画集団と頭脳警察はそもそも仲が良い間柄ではなかったんだけど、「風都市」にいた上村律夫という男が実は昔はPANTAと麻雀をやったりするような仲で……。
PANTA:彼は元ブルース・クリエイションのメンバーで、頭脳警察のギタリストの山崎隆志と近い関係だったんだよ。その山崎の友達が吉田美奈子で、「さよなら世界夫人よ」(『頭脳警察セカンド』1972)にフルートとピアノで参加してもらったりしてね。
鈴木:その後、上村はムーンライダーズ・オフィスの社長になり、それがやがて『マラッカ』にも繋がってゆく。
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自分はボーカルに専念して、音の方は安心して任せられるバンド・スタイルにしたかったんだ。(PANTA)
−−1974年に頭脳警察はラスト・アルバム『悪たれ小僧』をリリース。はちみつぱいも同年に解散し、それぞれが新しい活動に入って行きますね。
PANTA:頭脳警察の解散は75年の12月31日だったんだけど、その頃はもうソロの『PANTAX’S WORLD』(1976)をレコーディングしていたと思う。
鈴木:鈴木慶一とムーンライダースの『火の玉ボーイ』(1976)と同じ頃だ。
PANTA:当時のレコード会社(ビクター)の担当ディレクターの平田国二郎が慶一とも知り合いで、彼が「二人は絶対、話が合う」と言っていたんだよ。
鈴木:平田さんとは、はちみつぱい解散前後、我々のレコードをビクターで出すという話があって、そのとき会ったんだ。
PANTA:なるほど。それで“FLYING DOG”から、はちみつぱいにいた渡辺勝のソロアルバム(『ぼくは白い雲』1976)が出ているのか。
−−“FLYING DOG”は、ビクターが1976年に創設したロックレーベルでしたね。
PANTA:そう。頭脳警察の担当が「今度、ビクターに新しいロックのレーベルが出来るので、PANTA、ソロになっても残ってくれ」と言って来た。その第一弾が『PANTAX’S WORLD』(1976)だったんだ。
−−1977年にはソロのセカンド『走れ熱いなら』をリリースし、PANTA&HALを結成していますが、その経緯は?
PANTA:頭脳警察のときは馬車馬のように前しか見ないでやってきて、ソロになって色んなセッション・ミュージシャンとレコーディングしたんだけど、深い親交になるわけじゃないんだよ。俺はプレイヤーじゃないから、音楽仲間が少ないというのもあったし、ソロで2枚アルバムをつくってみて、自分はボーカルに専念して、音の方は安心して任せられるバンド・スタイルにしたかったんだ。
初対面で、慶一の一言で『マラッカ』のコンセプトが決まった。(PANTA)
−−慶一さんは、慶応大学三田祭事件以来、PANTAさんとは距離を置いていたんですか?
鈴木:最初は会うことを躊躇したよね。やはり、頭脳警察=怖いというイメージがあったから。でも、上村が「パブリック・イメージと違って全然怖くないし、良い奴だよ」って言うので、じゃあ一度会ってみるかと。
PANTA:初めて会ったのは、ビクタースタジオの近くにあった神宮前のバー「カル・デ・サック」だったね。俺、酒飲まないんだけどね。
鈴木:会うまではPANTA & HALって頭脳警察より怖いんじゃないの? なんて思ってたんだけど、話してみたらあっという間に打ち解けて、プロデュースを引き受ける気になっていた。あがた森魚やはっぴいえんどと初めて会った時と違ってなぜか身構える必要がなかったんだ。それは音楽始めて10年近くたってたのもあるし、さらにPANTAのキャラクターのせいなのかもしれないんだけど。
PANTA:初対面で、アルバムのテーマをアラブからの流れのシルクロードかオイルロードかで迷っていると話したら、慶一が「それはオイルロードでしょう!」と。その一言で『マラッカ』のコンセプトが決まったんだよ。
PANTA & HALのライブを観に行ったときは、もう『マラッカ』のサウンドはほぼ出来上がっていた。(鈴木)
鈴木:私がPANTA & HALのライブを新宿ロフトに観に行ったときは、もう『マラッカ』のサウンドはほぼ出来上がっていた。これは相当バンドで練り込んでいるなと思った。
PANTA:『マラッカ』までの2年、時間をかけたからね。頭脳警察のときが完封型ピッチャーだとしたら、PANTA&HALは打たせて捕る型に変わったんだ。
鈴木:初めてライブを観た時は、かなりフュージョンっぽかった印象がある。
PANTA:当時は日本の音楽界にフュージョンの嵐が吹きまくっていたからね.。ギターの今剛はまだ二十歳そこそこだったけど、リハーサルも含めてアイツのミストーンは一度も聴いたことがないぐらい(笑)。
鈴木:しかも、アレンジもほぼ出来上がっているんだ。それをレコーディングに向けていかに変化をつけていくか。パンクもニューウェーヴも登場したし「PANTAとフュージョンっていうのは、この時期どうなのよ?」という疑問も多少あったかな。
PANTA:自分としても抵抗はあったんだよ。音のスタイルではなく、中身のハードネスが重要なんだと自分なりに解釈していたけどね。
鈴木:平井光一と今剛の二人のギタリストは、テンションをつけて複雑なコード進行にしていくんですよ。そのアレンジが実に緻密だった。
PANTA:そこには俺は一切口を出さなかったからね。
鈴木:それで俺に口を出させたんだ?(笑)。
PANTA:そうそう(笑)。プロデューサーだからしょうがない。
胃が痛くなった初めての本格的なプロデュースとレコーディング。(鈴木)
−−『マラッカ』の緻密なアレンジとテンションの高い名演は、PANTAさんの世界観と共に話題になりました。
鈴木:緊張感はあったね。私も本格的に知り合い以外をプロデュースするのはほぼ初めてだし、バンドとは初対面だったから、どっちのテイクにするかでモメたり、胃が痛くなりましたよ。レコーディングは細野(晴臣)さんのアシスタントであがた森魚の『日本少年』(1976)をプロデュースしたときに学んだバンド・アレンジを踏襲して、最初はドラムズとベースのアンサンブルを決める。そこが録音出来たなら先に行ける。ギターの修正とかね。その後、「俺、退屈だから帰るわ」ってベースの村上元二が帰っちゃったのは驚いたけどね。
PANTA:マイペースだったからね、亡くなった元二は。
−−レコーディングは3ヶ月かかったそうですね。
鈴木:録音用のリハーサル中に私は第一回目の難聴になるんだ。レコーディングの前半はそれでOKテイク出してたんだから、今思えば冷や汗ものですよ。時間がかかったのは自分の至らなさゆえです。
PANTA:同じレコード会社のピンクレディーが稼いだ金をスタジオで湯水のように遣い(笑)、売れてもいないのに肩で風切って歩いてた気がするよ。
鈴木:『マラッカ』のレコーディングをした78年頃は、フュージョンと同時にパンクやテクノなど新しい時代の音楽が芽吹いた頃でもあって、そのちょうど分岐点だった。
PANTA:そこはムーンライダーズにも葛藤があったでしょ?
鈴木:我々は『ヌーベル・バーグ』(1978)の後、『モダン・ミュージック』(1979)の時にグッと舵を切る。
−−『マラッカ』は、そんな過渡期に生まれたアルバムだったと?
鈴木:そう。フュージョンの残り香はするけど、ニューウェイヴ的なアプローチやサンバやガムランなども取り入れながら変化をつけていった。「マラッカ」という曲なのに、なんでサンバなんだという疑問は残るものの(笑)。